明細胞腺癌になってからの日々

明細胞腺卵巣がんです。

お母さん

私の母は、18年前 脳内出血で倒れた。

当初はリハビリも頑張っていたが、何度か転倒し腰を痛め リハビリもしなくなり、17年間寝たきりになってしまい 介護生活が続いている…。55歳で倒れた母は とても辛く毎日「死にたい」

「包丁持ってきて、死ぬから」とよく言っていた。

その言葉は、とても辛く 介護しながら 私も

ノイローゼ気味になった…。

育児と介護 壮絶な日々。

子供を連れて外出すると 1分おきに母から電話がなる

「リモコンが落ちたから帰ってきて」

仕事中の父からも

「お母さんが困っとる 早く帰ってあげて」


夜中も 呼び出しベルが何度もなる。

自由は、無かった…。


それでも 何とか5年間は 必死に母に付いてあげた。

ある日 私の作った食事が気に入らないと言って 全部 床に投げた…もう 限界。

心療内科に行って、精神安定剤を飲みながら

子供を育てた。


介護される側が 一番辛いに決まってる。でも介護する側のメンタルケアも必要だと痛切に思った。


父が退職してからは、主に父が介護をしてくれるようになり、私は やっと子育てに重点を置くことができるようになった…。


それから母は、脳が萎縮し始め 幻覚や痴呆が進み 私さえ分からない状態になり

毎日のように 「ぎゃーー」と叫んだり

オムツに手を入れて 便まみれになったりと

…。それは想像を絶する 日々が続き

家族もヘトヘトになった。でも気付けば18年経ち 今も介護生活は続いている。


私は 母が倒れてから 母に相談したり悩みを聞いてもらった事は一度も無かった…。言っても

分からないと思ったから。

でも 卵巣がんになって 母に言った…

「お母さん 私 ガンになったんだよ。手術してくるね。 何もしてあげれなかった。ごめんなさい。」と 母の手を握った。 温かかった。私を じっと見つめ 以外な言葉が出てきた。


「お母さんが 代わりに ガンになれば良かったのに…。何もしてあげれなくて ごめんね。」って。


ずっと 母に甘えたかったのか、私は涙が出て止まらなくなった。「お母さん…」と何度も言った。



私にも 中学1年生の娘がいる。何でも私に相談してくる。お母さんの存在って大きい。だから、娘のためにも ガンと闘わなきゃと思った。


月曜日 大動脈リンパ節郭清、左卵巣切除、骨盤リンパ節郭清、大網切除

2回目の手術は、開腹手術…。

怖いし リンパ浮腫も心配。でも やらなきゃ。前に進めない。


手術 抗がん剤治療…。

いよいよ 始まる。